2005年06月08日

「どうしてそんなにスウェーデンに行きたいの」とよく人から聞かれる。

「どうしてそんなにスウェーデンに行きたいの」とよく人から聞かれる。
スウェーデンに長期滞在して介護の現場を訪ね、 自分の目で質の高いサービスのあり方を確かめてみたい。そして、それを日本に紹介しきたい。これが、 母の介護を始めた一九九〇年からの夢だった。おかげで、困難に出会うと夢が心を温めてくれ、励ましてくれた。
十一年間の働きながらの在宅介護を終えたのが、二〇〇〇年十月三日だ。母を自宅で看取った。その六日前、 私が五三歳で初めてウェディングドレスを着るというおまけが付いて、介護生活は終わりを遂げた。この年、 大晦日の六時三〇分まできっちり働き、私は三十三年も勤務した銀座の専門店をやめた。
以来、年賀状に「今年こそスウェーデンに行きます」という言葉をほのめかし、意気込むのだが目処が立たないまま、 次の正月を迎えるというパターンが続いていた。
アクセス方法が見つからないのだ。
スウェーデンの介護の現場や人々の中に分け入るにはどんな方法があるだろうか。ツアーの視察旅行では物足りない。 大学の福祉学科に入学してから留学するのが正攻法だが、仕事をやめた直後は疲れ果て大学生になる自信がなかった。それに、 留学したらこの歳になり手にした伴侶と暮らす生活を棒に振る。夫を一人残して家を長期に空けられないから、 三ヵ月ぐらいの滞在がせいぜいという折衷案に落ち着いた。物足りないが、三ヵ月を有効に使う方法を探すのが次の課題となった。 現地に暮す留学斡旋の日本人エージェントを紹介するという話もあったが、これはイメージが違った。スウェーデン大使館に直接行き、 問い合わせてみよう。そんな、思いあぐねる月日が続いた。
アクセス以前の問題もあった。
英語力である。スウェーデンでは高齢者も英語を話すという。訓練施設で授業を受けたり、ホームステイして人々と触れ合ったりするには、 スウェーデン語とまでいかなくても、英語で読み書き話すことに慣れるのが不可欠だった。
何より私には福祉の素養が不足していた。ひたすら、小売業で働いてきた私は福祉の門外漢である。介護期間や、 母の在宅介護を二冊の本にまとめる中で、本だけはたくさん読んだつもりだが、これだけでは話にならない。 専門性の高い福祉を確実な視点で伝えるには、基礎的な勉強が必要だった。
アクセス方法を探す、英語力を高める、福祉の勉強、さらに文章力をつけることが、退職後の私の毎日の課題となった。
以来、母校の清泉女子大学や上智大学、明治学院大学で科目等履修生となり、日本語表現法や社会福祉の授業を受講している。 英会話スクールにも通い始めた。しかし、商売気がありすぎる最近の英会話の学校は肌が合わない。困っていたら、 アメリカ人のダニエルという若い女性と出会う幸運に恵まれ、個人レッスンを受けられるようになった。ダニエルの帰国後は、 その友人のジャスティーンを紹介してもらい今もレッスンを続けている。
二〇〇二年に二冊目の本を書き終えると、講演の依頼が来た。これは、浪人生活をしている私にはいい勉強の機会となった。 時間をかけて資料を調べ、準備を怠らないように努めた。
こうして着々と準備を進めたが、スウェーデンへのアクセス方法はまだ探せなかった。
一方で疑問が湧いた。スウェーデンの素晴らしい福祉を、専門家でもない私がいまさら紹介して何の意味があるのか。 この道の権威は星の数ほどいる。故外山義さんや訓覇法子さんをはじめ、二〇年、三〇年と現地に住んで根を張り研究活動をしている人々がいる。 大学で福祉の研究を続けている先生たち。スウェーデンと交流の深い医師や看護師や理学療法士の方々など、 私が運よく参加できた上智大学の冷水教授のフィールドワーク調査で会った研究者を見ていると、たった数ヶ月の滞在で、福祉にも、 執筆にも素人の私に何ができるのかと自問した。
もはやスウェーデンモデルではない、という意見もある。オーストラリアのような日本に近い社会システムの国の方がモデルになる。 北欧と日本では政治や社会のあり方が違いすぎる。北欧の福祉は夢の世界というのだ。また、「日本には日本型の福祉が存在するじゃないか。 西洋ばかり見ないで、もっと、日本に目を向けなさい」という指摘もあった。何しろ九〇年代当初は年間五千人という視察団が、 例えばデンマークを訪ねたという。こんなに多くの日本人が北欧から学んできたのに、日本の福祉は根源的な部分で変わっていない。 これはなぜなのか。時々、私は考えすぎて落ち込んだ。
私はへこたれたが夢はへこたれなかった。
夢が生まれた瞬間の記憶がある。八一歳の母の介護が始まった年の九〇年、わが家で、羽田澄子監督の「安心して老いるために」 という記録映画のビデオを観ていた時のことだ。テレビの画面では、スウェーデンのモタラという町にある、バルツァ・ ゴーデンという草分け的なグループホームが紹介されていた。ビデオの中の、一分足らずのシーンがするりと私の心に入り込んだ。 そのシーンはいつしか私の夢になった。夢は人知れず膨れ上がり、今も私の心に住み続けている。
そのシーンは、自宅に帰りたいと一人の老人性痴呆症(認知障害)の男性が、帽子を被り、 ステッキとボストンバックを携えて夜の廊下を歩き出す場面である。わが家でもよくあった。母は自分の家にいるのに「おうちに帰る」 と童女のように泣きじゃくった。映画では女性の介護者がどこからかともなく現れ、さりげなく男性の手を自分の両手で包み、優しい声で 「ここはあなたの家ですよ」と語りかけるのだ。映像が実に穏やかである。女性の声のやさしさ、 納得して部屋に戻り帽子をぬぐ老いた男性のしぐさ。双方とも態度が自然でギスギスしていない。
どうして、日本の介護の現場は、汚く、厳しく、辛いといわれるのだろう。 私は七八年に都内の老人病院で亡くなった父方の伯母の老人病院の壮絶な最期が忘れられなかった。 ジャーナリストの大熊一夫さんが数年前に週刊誌「アエラ」に連載した日本の老人病院の悲惨なルポルタージュも記憶に新しかった。
このケアの質の差は何が原因で生まれるのか。
どうして日本の障害を持つ高齢者は惨めなのか。どうして介護者は雑巾のように燃え尽き、疲れ果てるのか。なぜ、 スウェーデンでは自然体で介護ができるのか。異常行動をする認知症の老人はいないのか。
長年、私は銀座の接遇の質が高いと評判の専門店で働き、温かく人に接するにはどうしたらいいかと、実践しながら考え続けてきた。 社内研修をしたり、社外ではサービスの講演をしたりする機会が多かった。だから、人の態度や振る舞いにとりわけ関心を持っていたのだ。
私は映像に写った介護者の肩の力を抜いたやさしい振る舞いに注目した。その映像の記憶は、いつしか「スウェーデンを訪ね、 この目で実際の姿を見てみたい」という夢に変わった。夢が心の中で成長していったのだ。当時は母を抱える私生活の面でも、 職場の立場においても、旅行など叶わぬ境遇だったから、スウェーデンに行きたいという思いはますます募っていった。

2005年06月08日 20:22 |  投稿者: rumi   |  コメント (0)